あの日の運転席
今日はふと特別お題が目に留まったので...いつもとは違う感じで書きます
カーオーディオ。スマートフォンや小型音楽プレイヤーの浸透した今では、あまり意識しなくなったモノの一つだろう。けれど初めて車で聴いた曲というのは不思議と心に残るもので、そしてそんな曲はいつだってあの日の車窓をまぶたの裏に映し出してくれる
僕はハタチ。父が座っていた運転席に、いつしか僕が座るようになった。けれどあの曲たちはいまも変わらず、ドライバーになった自分を包み込んでくれる
探し物はなんですか
父は昔、走り屋だったそうだ。ほんとかどうかはわからないけれど、子供の頃に乗ったその赤いスポーツカーは、今でも記憶に残っている。屋根を開けられるそのスポーツカーで切る風は、いつだって心地よかった。父は一度、幼稚園児の僕を隣に乗せたままスピード違反で捕まったことがあるが、小さく無邪気だった僕にとってお巡りさんと話せたのは嬉しい出来事だった
そう、あの日もこの曲がかかっていたのを覚えている。井上陽水の「夢の中へ」
“ 探し物はなんですか?
見つけにくいものですか?
お巡りさんと話すなんて夢みたいだったのも覚えている。父にとっては悪夢だっただろうが。僕は不思議とこの曲が大好きだった。もちろん今も好きだが、意味のよくわかっていなかったあの頃も、この曲を聴くと胸が高鳴っていた。カーラジオで流れたこの曲を初めて聞いた時、僕はそれまでしていた話も止めて夢中で聴いていたらしい。それ以来、この曲は我が家のドライブの定番となった
“ 探すのをやめた時
見つかることもよくある話で
ただ残念ながら、物をよく失くし、いつも探しものばかりしている母はこの曲が苦手で、あまり聞きたがらなかった。だから僕と父は、ツーシーターに座っているその瞬間だけ、あの曲を楽しんでいたのだった
探し物はなかなか見つからない。けれど忘れた頃にポロっと出てくるもので。今日も「夢の中へ」を聴きながら、この曲を好きになったきっかけはなんだったかな、なんて考えていたが...今回の特別お題でふと思い出したのだ。ありがたい
雲の切れ間に散りばめたダイヤモンド
小学生になって、あの赤いスポーツカーは廃車になり、ホンダの赤いフィットに変わっていた。僕はというと、これまた父の影響でスキーという趣味ができた。けれど瀬戸内の温暖な場所にある僕の実家からは雪国が遠く、必然的に移動は長距離となった
車で四時間半、そんな退屈そうな旅路も、いつだって音楽が飽きさせなかった
恐羅漢スキー場は広島県、島根県最高峰の恐羅漢山に位置するスキー場で、その雪質は中国地方最高レベルだ
その道はなかなか険しく、車一台がやっと通れる崖際の峠道を通ることがある。小学生の自分にも恐ろしかったが、免許を取った今の自分でも恐ろしい。すごいな父上
まあそんなこんなでスキーに行くといっても、そう何度も行けるほど気軽なものではなかった。だから、行った日にはスキー場の開場時間から閉場時間、そのギリギリまで滑っていた
帰る頃には夜。薄暗く静かで、おっかない道を進む時、勇気をくれたのがRCサクセッションの「雨上がりの夜空に」だった
“ Oh...雨上がりの夜空に 輝く
Woo...雲の切れ間に 散りばめた ダイヤモンド
山深く星は美しい。窓を開けると頬は凍えるようだったけれど、顔を出して見上げる星空はいつも美しかった。いまこの曲を聞くと少しセクシーに聞こえる。あの頃の純粋さも忘れたくはないけれど、歳を重ねたことで曲の印象が変わるというのも悪くない
父の車を駆けて見た虹
それから10年ほど経って私も免許をとった。MT免許。ちょうど父の車を買い換える時期だったこともあり、中古でマニュアル車のセダンを購入した。シルバーのそのセダンは、僕の記憶の限り、我が家で初めての赤以外の車だった。平日は父が会社に乗ってゆき、休日は僕が運転を練習する。そんな毎日が続くと思っていた。しかし
2019年2月5日。現実世界では元気だったので、まったく縁起でもない夢だったが、亡くなった父の影が家に帰ってくるという夢を見た。目を覚まして、涙がどうしようもなく溢れてくる、そんな夢を。言い知れぬ胸騒ぎを感じた僕はすぐに携帯を開き、メモにできるだけ事細かく、覚えている夢の内容を書き記していた
そして2月8日、父が会社で倒れた。脳出血だった。それも運悪く二箇所も。数日前から一箇所で出血が起きており、自覚症状のないまま二箇所目が出血したそうだ。
夢が現実となってしまうのではないか。その恐怖と強烈なショックで食事も喉を取らず、ただ父の回復を祈った。祈り続けた。それから2日ほどして病院から連絡があった、容体が安定したと
もちろんホッとした。生きててくれてよかったと。けれどそれと同時にあの夢を思い出して『どこか心の奥底では父の異変を感じていたのではないか』とか『あの朝すぐに病院に連れて行くことはできなかったのか』と罪悪感に苛まれて、何度も、何度も思い返した。そして思い返せば返すほど、確かに小さな異変はあったと気づく。「体調が悪い」と言って早めに寝たり、いつもよりもイライラしていたり...ああ、きっと無意識に異変を感じていたもう一人の自分が、夢の中で教えてくれていたんだ。そう思うと、どうにも遣る瀬無い気持ちになったのを覚えている
心がボロボロになっていた時、一本の電話がかかってきた
「ーお父さんの車を取りに来て欲しい」
父の会社の人からだった。気づけば一週間が経ち、ずっと車を置いているわけにもいかないらしい。私は母と一緒に小雨降るなか会社へと向かった
父の車はずっと工場の隣にあったからか、すっかり汚れてしまっていた。手続きを終えて、運転席に座る。ふう...と一息ついて鍵を回すとメーターはぐるっと回り、ETCの確認音と共に流れてきたのは父がよく聴いていた地方FM。パーソナリティの女性の声がやけに遠く聞こえていたのを覚えている
それから10分、いや20分ほど走っただろうか、正直どの道を走っていたのか覚えていない。ただ気がつくと家へと向かう道からは逸れて、ある立体交差に差し掛かっていた。先ほどより強まった雨足を貫くように、雲の切れ間からは傾く陽射しが伸びている。すると、ふっと周りの音が吸い込まれる感覚と共に、暖かなサックスのメロディーラインが聞こえてきた
“ だから今日も 雨が上がるのを
ずぶ濡れで待つ おいらさ
お前 呆れた 顔をしないで
心の ドアを開けて
それは虹だった。暗い雲はいつの間にか消えて、温かな日差しと独特なボクサーエンジンの音、そして聞き覚えのある歌声が僕をそっと包んだ。凍えきった心の中に、切ないはずの詩が甚く刺さり、暖かかった。閉じかけていた僕の心を、この曲が優しく開いてくれたのだ。あの時、立体から見下ろした僕の街に、確かに虹が架かっているのを見た
曲が終わっても、僕は歌詞を呟き続けた。そして急いで家に帰って歌詞で検索をかける。ヒットしたのはやはり尾崎豊の曲だった。中一から尾崎豊ばかり聴いていた僕は、「15の夜」、「十七歳の地図」、「卒業」と名曲たちをその歳の頃に聞き、そして聞くたびに深まる彼の歌に半ば陶酔していた。だから声で尾崎豊というのはなんとなくわかっていた
僕の知らない尾崎豊。その曲名は「虹」だったのだ
ものすごく驚いた。その曲を聴いた時、まだ名前は知らなかったけれど確かに見たのだ、この目で虹を。嘘のようなほんとの話。僕はあの日から立ち直り、明日に向かって進むことができた
父を隣に乗せて
あれから一年が経とうとしている。右半身に麻痺が残る父も、歩けるまでには回復した。左利きだったことが幸いし、職場復帰も見えてきて、日常も帰りつつある
ただ一つ変わったこと、それは運転席と助手席が入れ替わったことだけだろう。今日も僕はハンドルを握る。父を乗せて、少し大きめの音でFMラジオを聴きながら
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by ホンダアクセス